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ネットがあれば本はいらない?

読書はしなくても、ネットで充分?

インターネットやスマホの普及で、読書の時間が減っている。

もう読書しなくても、ネットで充分なのだろうか?

ボクは、読書はとても大切だと思う。

言葉を調べるのは、確かにネットで充分。図書館より、辞書より早い。

ただ、早すぎて、調べて何の寄り道もなく、まっすぐ帰ってきてしまう。辞書ならば、見つける前に何ページも近くを何ページもめくり、いよいよ迫っても周辺の言葉が目にとまり、いくつかを興味を持って読む。興味を持って読んだことは頭に入りやすい。

また、正確性について、出版物は世に出るまでに何度も、多くの方の目でのチェックがあり、しっかり校正が行われる。ネットの掲示板や、時にはニュース記事、個人のブログは、一人で書けてしまい、チェックも時にはそれほど行われず、掲示板は勢いで書き込むので誤用も多く、意図的な言い換えやスラングも多い。

子どもたちはネットで正しい日本語をおぼえられるか?

正しい言葉やスタンダードな文章の流れを知ってあえて崩す分にはいいのだが、スタンダードな国語力が備わっていない子どもがここで日本語を覚えると、いざ正しい文章を書こうとするとなかなかに苦労が多いのではないのだろうか。

これはボクの自論であるので、世の中のすべての人に当てはまると主張するつもりはないのだが、そうなってしまうのではないだろうか。

ボクの親は小説が好きで、影響を受けて本を読むようになった。小学生のころは学研のマンガひみつシリーズや、マンガ伝記シリーズを図書館で借りて読んでいた。「星座のひみつ」「犬のひみつ」「漢字のひみつ」「恐竜のひみつ」「宇宙のひみつ」など、新しい本が入っているとワクワクして貸し出しカードに名前を書いて、借りて帰った。

別に勉強のつもりで読んだことは一度もないのだが、振り返ってみると小学校の勉強は苦労した覚えがない。

たとえば、学校の授業、理科の教科で宇宙や惑星のことにさしかかったときに、すでに頭の中にマンガのイラストと共に太陽系の惑星が、全部記憶している訳ではないにせよ、一度読んで知っている。その頭の中のイラストや単語やうんちくに、先生のはなしがどんどんくっついていく。読んだ本の記憶が依り代となってキャッチしていく。

面白がって読んだ話だから、先生のはなしで強化されると授業を楽しんで聴くことができる。

逆に、もし宇宙のひみつを読んでいなかったら、ひょっとしたら頭の中にイメージができず、先生が何を言っているか理解できず、宇宙の話は退屈になったか、嫌いになったかもしれない。子どもが楽しく勉強できるように、楽しく読める本を薦めてあげたい。

(ただ、本よりわかりやすい動画もあります。これは面白いなと思ったのが、人間の理解を越えた宇宙のスケールを星の大きさの比較で表した動画です。7分ほど時間があれば、宇宙のはてまで旅ができます。いかがですか?)

 

話がそれてしまった。

本はネットより正しい?

ただ、いつも本が正しくて全てネットが間違っているというつもりもない。インターネットは早く、先進国ではとても低コストで利用でき、検索性に優れ、速報性も高い。話題になっているが、あの広辞苑も、人間が作る以上はミスも発生し、その指摘はネットによって広まった。印刷物は一度出来上がり、人の手に渡ると修正箇所を紙で配るのも容易ではない。それこそデジタルの力で訂正をお知らせしたりする。

また、本の方が正しい日本語を覚えられるなどというと、「そう主張するあなたの日本語はいかがなものか」と正しいご指摘をいただきそうなので、その辺りは言い切らずにあいまいにしておくのにやぶさかではなく、安堵すらおぼえる。

はっきりいうと、かくいうボクも図書館で働いていて、ちょっと歩くと書棚に辞書がたくさん並んでいて調べ放題な環境にいるわけだが、わからない漢字があると、席を立って歩いて辞書を探し、ページをめくって探す…、ことはしないで、スマホでササッと調べたりしている。

単語一つを図書館に調べに来る人は、今後絶滅に近くなるのは想像に難くない。

ただ、言葉の使い方は多くの正しい実例から学ぶことが必要である。それには、文章をたくさん読むこと。

それとは別に、物語など長文を読むならスマホやパソコンより、一冊の本を、ページをめくって読んでいくのがいいと思う。スマホ・パソコンはいろいろな機能があるので気が散ってしまう。推理小説などを読み進めているときに、「あれ、この人は前に怪しいことを言ってなかったっけ?」と思った時に戻りやすい。

でも、電子書籍は検索など、使いこなせば便利だし、これからさらに電子書籍は読みやすくなるだろうけど。

紙の本と電子書籍、これからどうなるのか?

これから紙の本は減っていくと思う。印刷は贅沢だとなってしまうかもしれないし、物理的に何冊も持ち運ぶのも、置いておく部屋のスペースの点でもデジタルに軍配が上がる。

レコードからCDになったときに、「レコードの方が深みのある音があっていい」とかいろいろあったと思うが、曲のスキップが容易だったり、小さかったり、パソコンに取り込んだりと利便性が上回り、レコードを駆逐した。そのCDもデータのダウンロード販売にとってかわられ、今は定額ストリーミングサービスだったり、メーカーの公式PVが無料だったりしてすっかり形が変わってしまった。

また、算盤を計算機が駆逐してしまった。算盤をしっかり習うと暗算が得意になり、とても便利だが、計算機の普及で暗算の重要度は下がった。

漢字を覚えることも、AIか勝手に文章を今より高い精度で直してくれるようになれば、おぼえなくて良い訳ではないが、重要度は下がるような気がする。

紙の本はどうなるか…。算盤とCDよりは残りそう…、いや、残ってほしいけど電子書籍がこれからどんどん進化していくだろうから、贅沢品になってしまうんだろうか。

本を読むことよりも買って帰ることに喜びをおぼえる一流の積読家であるボクにとっては、明るい未来ではない…。

ボクの未来はいいとして、未来ある子どもたちに読書を楽しんでもらうため、そしてその読書は知らないうちにその子の成長の糧となることを確信して、子どもたちに読書を勧めていこうと思う。

エクスマ新春セミナーの帰り道に考えたこと。

ボクらは第4次産業革命の只中にいた。

ボクは北海道、十勝にある人口5,700人ほどの町。いわゆる、田舎に住んでいる。そこから飛行機に乗って東京に行くとなると、大変だった。

そう。大変「だった」のだ。

飛行機のチケットを予約して、空港から目的地、狛江市の市民ホールまで地図と格闘しながら交通機関を調べ、乗り降りする駅を詳細に調べ、時間を計算し、宿もどこがいいか丹念に調べ…、ということがかつてはとても大変だった。

しかし、今や地図も時刻表も、線路の路線図で切符の値段を見なくても、北海道の片田舎から東京の狛江市の市民ホールまで行くことができる。

どこでもドアこそまだできないものの、ドラえもんのひみつ道具の中に、手のひらサイズの小さなテレビみたいな道具があって、そこの画面に地図が出て、持っている人が歩くとどんどん切り替わって道案内してくれるというものがあったような記憶がある。

すごい、実現している。

もう、SFの未来がすでに現実のものになっていた。

SFって、子どもの頃は知らなかったけど、「サイエンスファンタジー」、空想科学の略ということを大人になってようやく知った(ちなみに、藤子・F・不二雄先生がSFを書くときは、「すこし ふしぎ」でSF)。

ドラえもんの道具や、未来デパートの配達が、次々に実現しつつある。通販も、本のカタログがなくったって、手のひらの中のモニターで、随時商品情報が更新される。

昔でいえば、三河屋さんだって御用聞きに来てくれて、注文したものを届けてくれるけど、夜中に在庫があるかどうか、だいたいいつごろ届くかサブちゃんに電話はできない。

配達もドローンで、という形になっていくのかもしれない。

スマホもインターネットもAIもどんどん進化している。

 

エクスマ新春セミナーで配られたパンフ。未来を想像させる。いや、いまはもう、SFで描かれた未来なのだ。

 

この今のテクノロジー、第4次産業革命にあたるとのこと。

AI(人工知能)とか、記憶媒体に人間の脳の全データを移す研究を、真面目にしている人がいると聞いた。

このままどんどん技術が発展して、もしそれが可能になれば、肉体の限界は関係なくなり、人間から寿命が無くなるかもしれない。そうなると、機械で体を作ってデータを移せばいいので、ドローンと組み合わせて、人間が空を飛べるようになるかもしれない。タケコプターができてしまう。

そんなことが、このあと例えば、第9次産業革命あたりで実現したりして。

人間がデータ化されれば、地球の裏側に空っぽのロボットを用意しておいて、データだけを送ってやれば、とうとうどこでもドアと同じことが実現してしまう。

第13次産業革命くらいでは、シンギュラリティ(人間の知能を人工知能が越える逆転現象)からさらに技術が進んで、地球のすべての、陸地とか、海とか、動物とか、植物とか、空気とかを全部データ化していって、全人間の全データもシンギュラリティがおきると言われる2045年から保存を始めて、バックアップが完成したら、人類のこれまでのデータを5Dプリンターで再生して、再生できるなら、巻き戻せるようになって、それはつまり、ドラクエみたいなRPGで言えば、セーブした時点まで戻れるということになる。

そうするともう、それはタイムマシンということになるのでは?

タイムマシンは実現する?

いろんな技術が発展しても、科学者の間では、タイムマシンは想像上のものであり、実用化ができないと言われてきた。実用化できない証明の一つに、「誰も未来からやってこないから、未来永劫できない」という笑い話みたいな理論(?)がある。

しかしこの方式なら、データのバックアップの前の世界には戻れないが、地球バックアップが成功した時点からなら、過去に戻れる。

いや、全地球のデータを入力しなくても、たとえば人間のDNAに遺伝情報が入っているのだから、地球のどこかに地球の遺伝情報があったりして、それを発見できれば、もしかして…。

あとは、まったく理論はよくわからないけど、原子は一番小さいものとされているが、原子と原子をある角度から新しく見つかった超光速でぶつけると、もっと細かくなる技術が実用化されたりして、そうすると、それを部品にして組み立てて、形を変えて地球や生き物を作っていって、小さな宇宙を再現して、神様みたいなことができちゃったりして…。

昨日は飛行機や駅や列車の中でこんなことを考えていた。

エクスマ新春セミナーのまとめでもなく、感想でもなく、セミナーを観て聴いてインスパイアされて、飛行機や列車を乗り継ぎながらの帰り道に思ったことを書いてみた。

なんだろう、この文章は。妄想? エッセイ?

塾生は100人くらいいただろうから、一人くらいこんなことを書く人間がいても、いいかもしれない。これも世界観だとすると、アートなのだろうか。

 

なんてことを考えていたら、セミナーの内容に触れる前に、ずいぶん長くなってしまったので、この記事はひとまず終わりにして、

エクスマ新春セミナーの内容については、また続きを書きます。うん、全然まとまんないスゴイ内容でした。書けるかな…。