Facebookで友達の投稿を見ていたら思い出したこと。
去年の夏、ポテトの呼びかけで、東京からポテトとシーラ、大阪からはるちゃん、そしてこのボクが札幌に集まりました。(いろんな人が集まるエクスマ塾で、本名で呼び合うと打ち解けにくいし、フラットにいろんなアイディアを出すためにニックネームで呼び合います)。
お目当ては大泉洋さんたちのチームナックスの公演で、その翌日に、「政寿司」さんでおすしを食べよう! ということで小樽に行きました(ポテトはスケジュールの都合で東京に戻ったけど。残念…)。
大満足で、せっかくだから運河通りを通って駅に戻ろう、と小樽の街を歩いてた時にシーラが「なんで小樽ってレンガの建物が多いのかな?」という話になった時に今度調べようと思っていて調べてなかったのです。
昨日、たまたま北海道の伝統についての資料を探していた時に小樽についての本があったので、思い出してページをめくっていたらそのことが載っていました。
「ガイドブック小林多喜二と小樽」小林多喜二祭実行委員会編 新日本出版社 1994年刊行
この本によると、小樽の街は何度か大火に見舞われており、その中でも1904年の大火はなんと2,481戸が被害にあっている。
そのため教訓として木造の建物を少なくして、石造りやレンガ積の家、瓦屋根や、隣の家と境を隔てる袖壁などが多くなっている。そして太平洋戦争での戦火は免れたため、現在まで残っている古い建物が多くあるとのこと。
なるほどー。町に歴史ありですね。
あと、小林多喜二といえば、蟹工船しか知らなかったけど、小樽がゆかりの土地だったのですね。
ページをめくると、第1回北海道メーデーが小樽で行われています。なぜ札幌でなく、小樽なのかなー、と思って読んでいると、小林多喜二はスパイの手引きで特高警察にスパイの手引きでつかまり、拷問の上虐殺されました。マスコミには、心臓まひで死亡、と発表され、そのまま報道されたそうです。
48ページには、自宅に遺体が運ばれ、仲間、支持者が沈痛な面持ちでいるところが写真に残っていますが、確かに、顔には古い写真でもはっきりと見てとれる大きなあざが…。
小樽では、「多喜二の労農葬に集まれ」「労働者農民のために戦った小林多喜二の虐殺に抗議の署名運動を起こせ」と、ビラがまかれたのですが、主催者十数名が事前検束され、集会は開催不能に追い込まれたそうです。
労働運動は権力によって弾圧されました。恐ろしい世の中でした。
蟹工船と言えば、国語の教科書でちらっと読んだくらいで、つらい労働の話としてしか捉えていませんでしたし、作品の背景、テーマも今この本を読んで知りました。
「検束」という言葉もはじめて目にしました。
お恥ずかしい…。
さらに読み進めると、小林多喜二がかように死に追い込まれたのは29歳の時。
あまりに若すぎる死が惜しまれます。もっと多くの作品を生み出せただろうに…。
とても勉強になりました。
「小樽 レンガの建物 多い理由」とグーグルで調べればすぐわかるのかもしれないのですが…。
ググるのもいいのですが、本で調べると、その過程で他にも知らなかったことがわかるということを普段言っていたけど、身を持って体験しました。
本っていいなー。
投稿者プロフィール
-
北海道鹿追町の図書館で働いています。心に残っている本は、一冊というのはとても難しいのですが、小学校高学年で読んだ「がんくつ王」です。
物語を心に宿すことのできる、読書の魅力を伝えていきたいです。
こちらのブログは、個人の意見を書き連ねています。
最新の投稿
- 未分類2020.11.01【リモートや動画の時代こそ『離見の見』】
- エクスマ2020.09.25「ブログ書けない病」にかかっていました。
- 橋本亨さん2020.05.22自分のことより相手のことを先に、という考えはうまくいかない。
- ブックカバーチャレンジ2020.04.24ブックカバーチャレンジ1日目 メルニボネの皇子